スティーブ・ウォズニアックについて知りたいですか?
アップルのコンピューターを作ったのは、スティーブ・ジョブズではなく、天才エンジニアのスティーブ・ウォズニアックです。幼少期を踏まえ、彼がどんな人物であるのかをご紹介!
いたずら悪ガキ伝説を知らない人必見!
【スティーブ・ウォズニアック】少年時代
まずスティーブ・ウォズニアックの少年時代から紹介します。
ここでいう少年時代とは、小学生・中学生の頃を指します。
【スティーブ・ウォズニアック】少年時代(小学生)
スティーブ・ウォズニアックは彼の父から、「正直であることが最も重要」と教えられ育てられました。
彼の父親はエンジニアですが元軍人であり、非常に真面目な人で、なおかつ堅物です。そんな父親に育てられたスティーブ・ウォズニアックは子供の頃に、父親から厳格な躾の下で育てられたのです。
さらに、父からの教育を通して、スティーブ・ウォズニアックは正直さよりも重要な事は「エンジニアなら世界を変えられる」という考えを抱いたと言います。またスティーブ・ウォズニアックは、父親からエンジニアに関する知識を叩き込まれた結果、小学生時代から IQ 200を超えていたと言います。
さすが、後に世界を変えた天才の数値と言えるでしょう。
ちなみに参考として、有名人のIQの数値は、
- 日本人のIQ最高値は188、
- アインシュタインのIQは170~180、
- ゲーテは190~200、
- モーツァルトは150
です。(出典)
どれだけスティーブ・ウォズニアックのIQが高いのかが伝わってきます。
スティーブ・ウォズニアックは、子供の頃から多くの人の生活を変えられるものこそがエンジニアリングであり、テクノロジーとは基本的に良いもので、悪いものではないとの考えを抱きつつ成長したようです。
後の話ですが、大人になったスティーブ・ウォズニアックはAppleでコンピューターを販売し、資産200億円ほどを獲得しました。
しかしもともと彼は中産階級で育ち、母親は専業主婦という、ごく普通の家庭で育ったようです。
そんなスティーブ・ウォズニアックの小学生時代は電気工作の毎日で、仲の良い電気工作の友達たちと日々を楽しく過ごしていたようです。のどかな環境で、気温が高すぎもせず低すぎもせず、丁度いいカルフォルニアの環境は子育てにぴったりだとも言っています。
またスティーブ・ウォズニアックは、小学生時代は引っ込み思案だったようで、あまり自分から話しかけることは得意ではなかったようです。しかしながら、スティーブ・ウォズニアックは運動は得意であり、友達からの人気もありました。
【スティーブ・ウォズニアック】少年時代(中学生)
でもそんな素敵な小学生時代とは反対に、スティーブ・ウォズニアックは中学生に入ってから暗い生活に入ってしまいます。例えば中学1年2年生の時代は、友達達から仲間外れにされて無視されていたようです。
スティーブ・ウォズニアックは勉強ができる優等生クラスに在籍していて成績も優れていましたが、そんな毎日がつまらなかったとのことです。
しかしそんな暗い日々を過ごすスティーブ・ウォズニアックは、もともとは人を笑わせることが大好きな性分です。それにも関わらず周りから仲間外れにされていたということから、たまたま性格が合わない友人たちと出会ったのかもしれません。
【スティーブ・ウォズニアック】青年時代
スティーブ・ウォズニアックの青年時代を紹介します。
【スティーブ・ウォズニアック】青年時代(高校生)
スティーブ・ウォズニアックの青年時代として、高校生の頃の話を紹介します。
いたずら メトロノーム爆弾
そして、スティーブ・ウォズニアックは、中学・高校はいたずらばかりして何度も捕まりました。例えば彼が悪さをした中で最も問題になったいたずらは、メトロノームに関するいたずらです。
具体的に言うと、音楽室にあるあのメトロノームを使って、スティーブ・ウォズニアックはいたずらをしたのです。カチカチとなる音を聞いて、これはまさに爆弾のような音であるとスティーブ・ウォズニアックは感じました。
その結果、スティーブ・ウォズニアックは電子メトロノームを、金属の筒のようにしてガムテープで貼って、「爆発 危険」と記入したのです。
その結果、学校の定期試験中にも関わらず、スティーブ・ウォズニアックは先生にお呼ばれされました。そして校長先生・教頭先生・担任の先生・学年主任・警察官二人に囲まれて、スティーブ・ウォズニアックはこっぴどく怒られたようです。
少年院に
スティーブ・ウォズニアックは、メトロノーム爆弾事件のいたずらをした結果、少年院に一泊させられました。
そこまで大問題を起こしているにもかかわらず、さすがスティーブ・ウォズニアック、いたずらに関しては全く反省していません。その少年院の同室で出会って仲良くなった悪い友達に対して、天井の扇風機の配線コードを外して、配線コード鉄格子に触れさせることで教官を感電させる方法を仲間に伝授したということです。さすがアップル創業者だけあって、考えることがぶっ飛んでいます。
エンジニアの血が騒ぐ
そして Apple を創立する数年前である、1975年から1977年まで、スティーブ・ウォズニアックはホームブリューコンピュータークラブに参加しました。これは多分、地域のクラブ・サークル活動のようなものでしょう。
このクラブに参加当初、スティーブ・ウォズニアックは内気で発言できませんでしたが、すぐれた機械設計を披露し、すごいなと思わせることによるコミュニケーションが好きだったと言います。ここでも、スティーブ・ウォズニアックの「エンジニアの血が騒ぐ」とでもいうような振る舞いは感心します。
またホームブリューコンピュータークラブにおいて、アップル1のベースとなるコンピュータを作成し、それ披露し周囲を驚かせたと言います。それは驚くに決まってますよね、だって世界的な発明品ですから。
そしてスティーブ・ウォズニアックは高校時代に、エレクトロニクスの科目を受け持つミスターマルコム先生から影響を受けたといいます。スティーブ・ウォズニアックは数学が得意で、中学でも高校でも賞を受賞したほどです。しかし、数学とエレクトロニクスを組み合わせるとエンジニアになるとミスターマルコム先生から学び感銘を受けました。
そしてミスターマルコム先生は、スティーブ・ウォズニアックが勉強内容は既に覚えてしまっているから、シルバニアという会社でコンピューターのプログラミングを学んだらどうかと勧めてくれ、その結果スティーブ・ウォズニアックはプログラミングに夢中になりました。
【スティーブ・ウォズニアック】青年時代(大学生)
ここまでがスティーブ・ウォズニアックの高校生時代までの生活でした。次に彼の青年時代として、大学生の頃の話を紹介します
スティーブ・ウォズニアックはコロラド大学に入学し、当初の大学時代は寮生活を送りました。スティーブ・ウォズニアックは熱心なキリスト教信者で、寮仲間と共に神に信仰していたと言います。
大学でもいたずら
そんなスティーブ・ウォズニアックは、やはりいたずら好きなので、大学でもイタズラを繰り返していました。例えばテレビ妨害機を造っていたずらをしました。そのいたずらを繰り返した結果、一度失敗をやらかして発覚しそうになりました。しかし、何とスティーブ・ウォズニアックは、別の生徒のせいにして、危機を切り抜けたと言います。ずる賢い頭の切れる人間であることがわかります。
大学中退
しかしそんなスティーブ・ウォズニアックは、残念ながらこの大学を中退することになってしまう事件を起こしてしまいます。
どんな事件かというと、彼は大学でコンピューターを使って、あるプログラミングを実行し、コンピューターの計算時間をクラスに割り当てられた年間予算の5倍以上も使ってしまいました。なんと数千ドルもの費用を教授の負担で使ってしまったので、教授に怒られて、退学したと言います。
その後、スティーブ・ウォズニアックは寮生活をやめて自宅に帰って、公立大学であるデアンザ・コミュニティー・カレッジに通いました。
しかしスティーブ・ウォズニアックは根っからのエンジニアであることから、コンピューターを設計・再設計を繰り返し、コンピューター設計の達人の域に達したと言います。
すべてを疑うようになった転換期
しかしそんな真面目でもあり、イタズラ好きでもあるスティーブ・ウォズニアックは、一つの考え方が変わる出来事が起こりました。それは徴兵制度に関することです。
スティーブ・ウォズニアックはベトナム戦争で「1A」という、いつ徴兵されるかわからない状態に指定され、国に翻弄されて以来、スティーブ・ウォズニアックは政府や権力を信用しなくなってしまいました。つまり、自分の人生を弄ぶことに激怒し、政府への信頼を失ったことが、スティーブ・ウォズニアックの転換期になったと言います。
このようにして、父からしつけられた子供時代とは反対に、すべてを疑うようになった様です。このような考え方を変えるような出来事があったからこそ、後の世界を変えられるようなアイディアの発想へとつながったのかもしれません。
酒もドラッグもやらない
さらにスティーブ・ウォズニアックは、過去にドラッグをやったことは一度も無いし、人生で初めて酒を酔うほど飲んだのは30歳以降であると言います。
なぜならスティーブ・ウォズニアックの父親は、酒を飲むと人が変わったように奥さんを怒鳴りつけたりするので、アルコールの摂取が嫌だと思ったとのことです。
スティーブ・ジョブズとの出会い
そんなスティーブ・ウォズニアックは、人生を変える大きな出会いを経験します。それは彼の盟友スティーブジョブズとの出会いです。
スティーブ・ウォズニアックが大学生の頃、ビル・フェルナンデスというコンピューター技術者に、当時高校生だったスティーブ・ジョブズを紹介してもらいます。
スティーブ・ウォズニアックとスティーブ・ジョブズは、お互いに気が合って、いたずらも一緒にしたと言います。また、ふたりともボブ・ディランの曲が好きだったようです。
性格も趣味も合う二人だからこそ、その後の大きな世界のイノベーションも成功したのでしょう。スティーブ・ウォズニアックは、「ディランの歌は心の琴線に触れるものだった」と言っています。
デジタル・ブルーボックス
スティーブ・ウォズニアックは、デジタル・ブルーボックス(電話の課金システムを迂回して、無料で電話をかけることができる機械)の設計を完成させます。
これは人生で最高のできだったと自分のことを大絶賛しています。そしてこのアイデアをスティーブ・ジョブズと賞賛し、そして感動し合ったと言います。さらに彼らはブルーボックスを使って、世界中に無料で長距離電話をしまったようです。
マイカーが事故で廃車になり、お金を稼ぐ目的ができる
なお、その頃にスティーブ・ウォズニアックは、居眠り運転をしてガードレールに車をぶつけ、車を大破させてしまいましたそしてその車を廃車になってしまいます。その結果、スティーブ・ウォズニアックは自分が乗るための車を買いたいので、大学3年生で仕事をする必要が出てきて、その後大学を中退し、アップルを創業することにつながったようです。
スティーブ・ジョブズと手を組む
またスティーブ・ウォズニアックは、前述のブルーボックスという、電話を違法にかけ放題できる機器を、スティーブ・ジョブズと手を組んで、同じ大学の学生に一つ当たり150ドルで販売しました。
違法である品物を複数の人に販売するのですから、悪ガキという可愛い呼び方はもはや通用しないレベルであり、悪質な人とも言えるでしょう。
しかしここまでの行動力があるからこそ、スティーブ・ウォズニアックは世界を変える行動へと踏み出したのかもしれません。
そしてこの後、スティーブ・ウォズニアックとスティーブジョブズはアップルを創業し、さらにアップルコンピューターを夜に出しました。そして彼らは大富豪となりました。
【スティーブ・ウォズニアック】まとめ
いかがでしたでしょうか?以上でスティーブ・ウォズニアックの幼少期から、アップルを創業する直前までの様子を説明してきました。
スティーブ・ウォズニアックという人物は、かなりの内気な人物であると同時に、プログラミングの天才です。それと同時に、相当な悪ガキ、いたずら小僧であったということは間違いありません。ここまで破天荒な学生時代があったからこそ、世界中をあっと驚かせる、自由な発想につながったのかも知れません。
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